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どうもこんにちは、あんりです。
一昨日は2011年3月11日に起きた東日本大震災から8年目の日でした。
当時私は関東であの巨大地震に遭いました。8年経った今でもあの瞬間のことを昨日のことのように鮮明に思い出せます。
しかし8年の月日も経ってしまうと震災の記憶の風化が進むし、震災を知らない下の世代も増えてきています。
実際2019年現在の中学生~小学3年生までの世代は震災を一応経験していますが幼すぎて覚えていないでしょうし、小学2年生以下の世代については震災後に生まれているので震災そのものを知りません。
マンションの前の公園で遊ぶ小学生
— なっち (@nc_76boc) 2019年3月11日
14:46の時報 黙祷のアナウンス
止まらない笑い声と遊具の音
「もくとうって?」「喋っちゃだめだって!」「ぎゃははは」
1分間笑い声は絶えなかった。
震災を知らない世代が増えてく。ね。
震災の節目に毎年思うのは、自分らが当たり前に経験したことを記憶にない・知らない世代が着実に増えてきたってことですね。
— 凡人 (@odoma_bonjin) 2019年3月11日
小学校も中学年になっている年の子は震災後の世代だし、すでに中学生になっている世代も記憶にない層が多い。
時間は経つなぁと。
成人済の私からすれば8年前といえばまだつい最近のような感覚なのですが、震災後に生まれた最初の世代が今春からもう小学2年生になるのだと考えると、もう8年も経ってしまったんだ!と驚きます。
時が経つのは本当に恐ろしくも早いですね…
というわけで当記事では、震災直前・震災当日の3月11日から翌日3月12日までの自身の体験を振り返ります。
8年目という節目ですのでその時の記憶・感情・感覚を記事にして残そうと思います。
震災発生1か月前~2週間前(2011年2月上旬~末頃)。新品のデジタルテレビに異変が現れる
当時自分は大学2年生(20歳)。大学の春休み中で、4月から大学3年生に進級しようとしていた時期でした。
既に親元から離れて学生寮に暮らしていましたが住む場所を新たに変えようと思い、引っ越し作業を進めていた頃でした。引っ越し先は2019年の今と同じ首都圏の某市。
転居先には新たに買った薄型のデジタルテレビなどの家電を搬入済。その当時テレビがアナログ放送からデジタル放送に切り替わる時期だったので、この機会に薄型のデジタルテレビを買ったんですよね。
引っ越しの作業がまだ完了していない中、転居先の部屋で引っ越し作業の休憩がてらテレビをつけてドラマなどを見ていたこともありました。
ですがテレビを視聴している途中で画面がフリーズしたり、突然「電波が受信できませんでした」のメッセージが表示され画面がブラックアウトすることが時々発生。
「テレビの調子が悪いのかな?買ったばかりの新品なのに…」
この時の新品テレビの不具合。その後震災直前までは度々起こりましたが、震災発生後は不思議とピタリとなくなりました。
今思うと、この新品テレビの不具合は電気系統の物に現れる宏観異常現象(巨大地震の前兆)だったのかなと思います。
震災発生1~2日前(2011年3月9日~10日頃)。異常な眠気
引っ越しが完了して約1週間が経った3月9日~10日頃。
朝に起きられず昼間まで何時間も眠ったり、起きた後もしばらくするとまたベッドに入りたくなるほど異常な眠気が続きました。
震災発生当日(2011年3月11日)。朝~地震発生直前までの過ごし方
翌日の3月12日、「引っ越し祝いパーティー」と称して友達4人が新居に遊びに来る予定なので、眠気を堪えつつも朝早めに起きて部屋の片づけや掃除をしていました。
まさかこの後大惨事が起こるだろうとは思えないくらい、とてもよく晴れた朝だったのを覚えています。
この日は昼過ぎから掃除機掛けを中心に部屋全体を掃除していました。
掃除機掛けがひと通り終わったところで、ベッドに腰を掛けて休憩。
休憩がてらケータイ(※当時はまだガラケーユーザーでした)を手に取り、当時のマイブームだったTwitter(モバツイ)を開いてタイムラインをチェックしようとしたその時、床がゆっくりユ~ラユラと揺れ始めました。
おや、地震かな?ま、すぐ収まるだろう。
しかし揺れは収まるどころかだんだん大きくなっていき、「あれ?なんだかおかしいぞ」と異変に気づき始めます。そして…
震災発生(2011年3月11日 14:46)。約2分遅れで14:48に地震襲来
ガタガタガタガシャガシャガシャ!!!!
今までで聞いたことのないような大きな音を立てて激しい揺れが襲ってきました。
同時に停電してしまい、さっきまで明るくしていた部屋が一気に真っ暗に。
「やばい!巨大地震だ!」
この時ケータイの時計を見たのですが確か14:48でした。震源の東北太平洋沖から離れた首都圏に住んでいたため、地震の揺れが約2分遅れて到達したのだと思います。
私はケータイを握ったままベッドからすぐ立ち上がり、玄関の方へ逃げ、出口を確保しようと玄関扉を開けようとしました。ですが揺れがかなり激しく、あまりの恐怖で立っていられなくなり、玄関前で腰が抜けた状態になってしまいました。
しばらくすると揺れが収まってきたので、さあ立ち上がろうか…としたその瞬間、
ドカン!!!! 再び巨大な揺れが襲ってきました。最初の地震よりもずっと大きな、第2波の地震。
巨大な揺れに体が宙に浮きそうでしたし、この時ばかりは本当に「アパートが崩壊するんじゃないか?」と思って死を覚悟しましたね。
その後も揺れはしばらく収まることなくずっとガタガタグラグラユラユラしていました。その体感時間はトータルで約3分。
私はそれまでに何回か地震を経験しましたが、数十秒すればだいたい揺れが収まるものばかりでした。それに対しこの時の地震は約3分と長時間続いたので、ただ事ではない!普通の地震じゃない!と思ったものでした。
後に自分が住んでいる地域が最大震度5強を観測したことがわかりましたが、あの揺れが震度5強だったとは信じられないくらい巨大な揺れがずっと襲い掛かって来ていました。
Twitterを使って情報収集を始める。
大きな揺れがようやく収まってきた頃、私はTwitterを通してケータイで情報収集を始めました。
停電によりテレビ・ラジオ(※電源につなぐタイプのラジオしか持っていなかった)は使えなかったため、ケータイで情報収集するしか手段がありませんでした。
最初、ケータイを通してネットニュースを見ようとしましたがサーバー落ちのため断念。しかしTwitterだけはなぜか問題なく稼働していたので、Twitterで情報収集を行いました。
自分のTwitterアカウントを通して
「まさか最近Twitterで噂されていた東海地震って今のなの?」
(※実は当時、震災1週間前あたりからネット上で「いよいよ東海大地震来るかも?」とよく噂されていたのです)
「地震で停電したからテレビも見られない。どこで地震起こったの?」
と呼びかけたところ、フォロワーである友人の一人が
「震源はどうやら宮城県沖らしいよ」
と教えてくれます。
ええ?!自分の住む関東でこの強い揺れだったのだから、震源付近の東北地方はどんな揺れだったんだよ?!きっと想像を絶するほどの揺れだったのだろうな…
と驚いたものでした。
この後東北地方では更に想像を絶する出来事が起こるとは、この時想像できませんでしたけどね……。
震災発生から約15分後(15時過ぎ)。母から安否確認の電話連絡
15時過ぎた頃でしょうか。母から安否確認の電話が掛かってきました。
「もしもし?!大丈夫だった?!」
母の声を聞いた瞬間涙が溢れそうになり、「怖かった~!」と震え声で無事を伝えたのを今でも覚えています。
母としばらく電話している間も大きい余震は度々起こりました。電話を終えようとした頃、
「出来れば今のうちに水や食料を買いに行きなさい。それと海や川の近くには絶対に行っちゃダメ!関東でも津波警報出ているからね!!」
と強く言われました。
ん、津波警報?まさか…
この時はにわかに信じがたかったのですが、とりあえず「わかった」と言って電話を切り、水や食料を求めに外へ出ることにしました。
水や食料を求めに行くもほとんど閉店。街の機能は停止
早速水や食料などを求めに外へ繰り出しましたが、近所のスーパーはどの店にも「地震の影響により急遽閉店致します」との手書きの貼り紙が。
しばらく近くを彷徨い、ようやく入れたコンビニも、既にいろんな食料品や生活必需品が品薄状態。店内にわずかに残っていたペットボトルの水と、パンを買って出ます。
それから私はしばらく近所の街を歩き続け、あたりの様子を見まわしました。
昨日まではキレイだったはずの歩道に大きな地割れ。
駅前で立ち往生する大勢の人たち。
電車に乗れなかった人達が街道に沿って長い列を作り、ぞろぞろと帰宅していく様子。
道路上では消えた信号機の代わりに警察官が手動で交通整理の対応に当たるも、渋滞がなかなか解消されず混乱する様子。
街の機能は完全に停止していました。
震災発生から約2時間後(17時過ぎ頃)に帰宅しますが、電気はまだ復旧していません。更に同じ頃ケータイの充電が切れてしまい、情報収集が不可能になってしまいました。
震災発生から約3時間後(18時頃?)電気が復旧。ニュースを見て絶望する
18時を過ぎた頃でしょうか。自分の住む地域では電気が復旧しました。
「やっと電気が復旧した!とりあえずケータイの充電と、テレビだ!」
そう思ってテレビを付けた瞬間、ニュースの緊急特番に映し出される東北地方の様子を見て「え…うそでしょ…」と絶望。
3時間ほど前、母からの電話で「津波警報が出ているから気を付けなさい!」と確かに注意されていましたが、まさか東北地方を津波が本当に襲うとは思っていませんでした。
自分が母と電話したり、食料品を求めに外出したり、街の様子を見ていた間に、同じ日本で津波から命がけで逃げていた人たちが大勢いたとは。
それも人や街をも飲み込む巨大津波だったとは。
しかもその津波は東北だけでなく関東にも(東北程の規模ではないけど津波が)来ていたと知り、ただただ信じられなかったです。
「東北の皆さんどうかご無事で…!」と祈ることしかできない自分に無力さを感じた。
そして時間を追うごとに震災の被害状況が明らかになっていき、ショックのあまりしばらく何もできず呆然と過ごしていました。
余震で眠れぬ夜(3月11日夜~3月12日未明にかけて)
夜になっても、日付を跨いでも、明け方になっても、強い余震は度々起こります。
立て続けに緊急地震速報の警報音が鳴り、直後に強い揺れが襲ってくるので、怖くてとても眠れませんでした。
とりあえず心身ともに疲れているのでベッドには入るのですが、緊急地震速報が発令されるたびに構えてしまうので眠れなかったです。
震災翌日(3月12日)。友達と過ごす時間がこんなに尊いものとは
この日、「引っ越しパーティー」と称して新居に友達4人を招いて食事会をする予定でしたが、前日震災が発生してしまったので「この状況で出来る訳ないだろう…」と思っていました。
ですが、結局4人のうち3人が集まれることになったので予定通り「引っ越しパーティー」を実行することに。
友達に会った瞬間、お互いが無事で生きていられることに喜びを感じ、思わずみんなで抱き合ってしまいました。
「引っ越しパーティー」では皆でカレーを作って一緒に食べたのですが、普段食べるカレーよりも倍美味しく感じられたのを覚えています。
東北程ではないとはいえ、関東でもあの地震で犠牲者が出ましたからね。自分たちだってもしかしたら犠牲になっていたかもしれない。そう思うと、こうして友達と会えたり一緒に食事ができるのは当たり前のことじゃないんだなと。
大変な状況下でも友達に会えたこと、お互いの無事が確認出来たこと、そして一緒に美味しいご飯を食べられたこと。どれも小さなことだけど、そのすべてが尊く感じました。
震災当時を振り返ってみて
震災体験を全て語ろうとするととても長くなってしまうので、とりあえず3月12日まで区切って自分の体験を振り返りました。実際はその後原発事故が発生したり、計画停電や物流の停滞など、しばらく日常で混乱状態が続きましたけどね。
日々時間に追われて目の前のことで忙しくしていると、どんなにショックだった震災体験もどんどん頭の隅に追いやられて忘れかけてしまいます。つい最近まで自分もそうでした。
ですが3.11という節目に敢えて震災体験を振り返って語ってみたり、当時の感情にじっくり向き合うことで、震災体験の記憶の風化を防げるのかもしれないな。そう感じる8年目の311です。